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郡山

引っ越して、1年が過ぎたばかりだった。
東京の端の方からの異動だったので、町の小ささに驚いた。
デパートが1軒。
しかも、三越や伊勢丹なんかじゃなくて、うすい百貨店。
当然のように車社会。
物価も安いし、自然も多くて、食べ物も美味しい。
なにより、人がとっても、あたたかい。
娘と歩いていると、あちこちで声を掛けられる。
犬まで連れ歩いたら、その確率はさらに上がる。
そんな町で、友達が沢山出来た。
子どもを通じて知り合ったのに、肩の力を抜いたままでつき合えた。
テキトーに子育てしてる私に、テキトーな子育ての友達が出来て、お互いに居心地が良かった。
マジメに子育てしてるお友達は、私の娘の世話を焼いてくれたりした。(すまない・・・)
始めはサークル仲間だったのが、お互いの家を行き来したり、旦那に子どもを預けてランチしたり、飲みに出掛けたりと、情報交換だけじゃなく、大切な大切な友達になれた。
郡山の町を離れるときには、今までに味わったことのない辛さを感じるだろうと、容易に想像出来たくらい、生活を楽しんでいた。

3月9日。
お昼くらいに震度3の地震があった。
信号待ちの車の中で、郡山の地震の多さを思い出して、気味が悪いと思っていた。
3月10日。
この日の朝も地震があった。
パジャマ姿の娘を抱えて、部屋の隅で小さくなっていたのを覚えてる。
今考えれば、これらは3月11日の震災の前震。

あの大地震は、思い出すのも辛い。
ママ友さんのお家にお邪魔していて、大人数だったのが心強かったな。
帰り道、停電で渡れなくなった踏切や、崩れたブロック塀、崩れた瓦屋根なんかが目に入り、現実かと疑った。
宮古の津波をテレビで見た後だったのに、受け入れられなかった。
マンションに戻ったら、駐車場の2階部分の壁が落ちていた。
廊下は崩れていたし、エレベーターは止まり、殆どの部屋の給湯器が壊れて、あちこち水浸し。
寝てしまった娘を抱えて自分の部屋に戻ったら、靴箱が倒れていて、入れなかった。
このとき、ようやく『被災』という言葉が浮かび上がった。
自分なりにショックで、頭が回っていなかったのに気づいた。

携帯もなかなか繋がらず、その夜の余震も酔うほどに揺れた。
電気が止まることはなかったので、遅くまでテレビを見ていた。
荷物をまとめて、服を着て眠った。眠れなかったけど。
大きな被害がなかったのは幸いで、それでも、これから先の生活が見通せない不安は強かった。

翌朝、開成山の給水に向かうと、4時間半待ちだった。
他の場所で入れて貰ったけれど、2時間掛かったっけ。
さくら通りを走っただけでも、地震の爪痕に鳥肌が立った。
オムツを買っておこうと、開いていたツルハに入ったけれど、店内を1周する行列。
買い物が出来るだけでもありがたいけれど、2歳児を連れて、毎日がこうだと・・・自信がない。
グッタリして帰宅すると、原発が爆発したと、ニュースが流れた。
避難する準備を始めた。
着替えやら食料やらをまとめながら、政府の発表の時間が、爆発から3時間半遅れだと気づく。
ニュースはスピードが命だろ。
このまま、日本政府を信用していいものか??
一晩掛けて旦那を説得し、翌昼、4号線を南下した。

名古屋で1週間ほど過ごし、今、私と娘は札幌の実家にいる。
旦那はしばらくして郡山に戻り、ひとり暮らし(+ワンコ)で仕事をしている。

一体いつ帰れるのかわからないし、常に不安がつきまとう。
眠りが浅いし、体調も崩しがち。
娘にもすぐにイライラして、叱りつけてしまう。
子どもなりにストレスが溜まっていて、すぐに泣くし、大声で叫ぶ。
相手になるのも、かなり辛い。
地震によって「こわい」を覚えたし、避難によって「かえろ」を覚えた。
それがまた、キツイ。


でも、もう1ヶ月。
少しだけ落ち着いてきた。
不安ばかりで胃が痛くなるけど、郡山に戻れる日は、必ずやって来る。
ゆったりと子育て出来て、優しい人たちに出逢えた郡山に、早く帰りたい。
たとえ時間が掛かったとしても、みんなと笑いながら過ごした時間が、戻るように祈ってる。

by keiko110 | 2011-04-10 01:13 | 気持ち